行き暮れて
テーブルの上では、枝垂れ桜がもう満開です。実は桜はまだ一、二輪しか咲いてはいないのですが、サーモンピンクの御影石テーブルの上に、折からの夕陽と一緒に映り込んでいるのです。
ここ、ふじみ野市亀久保の地蔵院の桜は、春の彼岸に花を咲かせる江戸彼岸桜の変種で、樹齢は三百五十年前後と云われています。
三月の初旬、今年は暖冬の影響で地蔵院の桜はもう二、三分咲きに違いないと、尋ねてはみたのですが、やはり余りにも早過ぎた様で蕾がやっと脹らんで咲きかかるかな、と言う状態でした。
地元のお寺でもあり、毎年この季節には訪れ撮影をしていましたので、境内の様子は良くわかります。実は前日、この日の「俳写吟行」に備えて、写真の構図まで考えていました。山門の仁王像の背後に二、三分咲きの枝垂れ桜を配し、ピントは仁王像に、絞りは解放気味にして…。俳句は「○○○○○桜守りし仁王像」あたりでまとめて…。と、ほぼイメージでは完成していました。
ところが、すっかり当てが外れて、シャッターを一度も切ることも無く、人気のない境内をウロウロ、寒さでクシャミまで出て、桜の小枝を揺らしてしまう始末。日も暮れかかり、庭の隅に置かれているテーブル上をぼんやりと覗き込んだ瞬間に、この満開の桜を目にしたのでした。
武蔵野の夕陽が、テーブルの端からころげ落ちるまで、夢中でシャッターを切り続けました。偶然が、計画された「予定俳写」よりは何倍も面白くしてくれます。
異次元の鏡の中を覗き込んだ、なんとも不思議な気持ちを、どの様な句にして写真と組み合わせようかと考えるのも、どちらか一方が出来ても完成しない俳句写真の楽しい遊び方でもあります。
写真と句の関係
情報量の多い写真に、俳句を重ねますとどうしても説明過多の作品になってしまいます。「俳画」の世界では、ベタ付けと言って句の説明画にならない様に避けるそうです。
既に写真は季節まで表現されていますので、「俳写」には、あえて季語まではいらないのではないかとも思えます。また、旅行中で写真だけをとりあえず撮っておき、後でゆっくりと句を考えたいという場合、その時の心情や、辺りの雰囲気を俳句風にメモしておきますと後日、作句の領域が脹らみもう一度旅が楽しめそうです。写真の情報量は膨大ですが、あくまでも自然の一部分を切り取っただけのもの、対象と自分との関係が一番大切だと思います。
もう一度
もう一度といえば、テーブルに映り込んだ桜だけで、満足して良いものかと言う気持ちがしばらくありましたので、週をあらためて再び地蔵院に行きました。場合によっては、写真も差し換えるつもりでした。
境内には観桜の人も多く、見事な枝垂れ桜といい、仁王像との取り合わせといい絵葉書のようです。数枚写真は撮りましたが、なぜか昂るものがありません。
すでに私にとっては今年の花見、あのサーモンピンクの御影石の中で、十分見納めてしまったのかもしれません。