「俳写よりぬき 三十六景」 写真と俳句エッセイ作品集より    2009/4

咳一つ 揺れてこの世の 糸桜

御影石に溶け込む、地蔵院の枝垂れ桜

「俳句・写真」小林 尊晴

     作品集によせて       三上 典生

 私は今まで詩には興味があっても、俳句というものにあまり興味を引かれなかった。しかし最近「俳写」に出会って、これは面白そうだと思い始めている。
俳句だけの場合、その言葉の簡潔さゆえに、意味とイメージを鑑賞者に任せる際の自由度が極めて大きい。それは俳句のすぐれた特長だと思われるのだが、反面ともすれば没主観に陥り、「解かりにくさ」や「独りよがり」という印象を与え、閉塞感を生じさせることがあるのも事実である。

 ここに小林氏の「咳一つ 揺れてこの世の 糸桜」という句を添えた俳句写真(俳写)がある。「咳」によって吹かれた枝垂れ桜は、目の前にある鏡面のような御影石のテーブルに映し出される。その光景は夕映えを伴って、「この世」から異空間へと誘うのだ。
そこでは「咳」から「糸桜」へ運動の伝達がおこなわれ、さらに「糸桜」の質料
(マチエール)は形相(フォルム)を失って御影石の質料(マチエール)と渾然一体となる。そして写真はその中に、夕映えをそっと溶かし込む。このように夢幻に誘う光景も、ふと気がつけば「この世」のことなのである。音のイメージから様々な視覚的イメージへの変化。この俳写作品の美しさと面白さは、この視点の移動の巧みさと形象の変形にある。

 俳句と写真はそこでは、互いに排除し合うのではなく、調和し共働
(コラボレート)する関係が成立している。表面でいろいろな事柄を説明し合う関係ではなく、深部で通底する「秘密の回路」を共有する関係である。俳写はまだ新しい形式の文芸だが、その特長はおそらく、俳句よりも多様な「秘密の回路」を持っていることにあるのではないだろうか。俳写は今、新たな芸術ジャンルとして「美」と「詩的真実」を生み出しつつあるように思われる。

 この作品集で小林氏は、俳句と写真の二要素だけではなく、エッセイを付け加えることによって、さらに新しい可能性を探っている。かつてシュールレアリストたちが称賛したあのロートレアモンの詩句、「ミシンこうもり傘との解剖台上での偶然の出会いのように美しい」という詩句の三要素の如く、斬新で美しい化学反応を起こすことができるかどうか、これからも氏の創作活動を注視してゆきたい。 
   

    
                         三上 典生 (仏文学者・翻訳家)